地球は今日も青かった(2017/1/1)

 あけましておめでとうございます。ささえ愛よろずケアタウンも今年5周年を迎えます。元旦を皮切りにブログを始めることにしました。
 今日のTVニュースもテロで始まりました。トルコで銃の乱射です。昨日の紅白で唯一はっとさせられた歌詞がありました。イエローモンキーの「JAM」という曲で、「外国で飛行機が墜ちました ニュースキャスターは嬉しそうに 乗客に日本人はいませんでした」「いませんでした」「僕は何を思えばいいんだろう 僕は何を言えばいいんだろう」
 世の中の不条理を歌ったのだと思います。それを我が事のラブソングとして歌い上げるのはジョン・レノン以来の伝統といっていいかもしれません。自分と君との愛だけが真実。二人で見る夢こそ現実。でもそこでもしも…と考えてしまいます。想う「君」がもし殺されたときに銃を持つことはあるのか。それは「国」を想って銃を持つのとどう違うのか。いのちより価値があるものがある、とひとの脳が考えてしまう、それはどのような機縁でわいてくる考えなんだろう。きっといのちには濃淡がある、それが確かな実感なんだろう。すべてを濃いいのちと捉えるのは無理がある。本当に信じられるものの範囲はそのひとの人間大であるべきなのかもしれません。それを超えた愛や正義は信じないほうがいい。だからひとまず僕は国を信じません。
 宇多田ヒカルの「道」にはこういう歌詞があります。「ひとはみな生きてるんじゃなく生かされている」。僕も何年も前からことある毎に同じ事を言ってきました。但し僕のはもっと裏の意味があります。歴史をみればひとの歴史はまさに「袖ふれあうも’殺傷’の縁」で、殺さないでいてくれてありがとう、の世界です。日本もいわゆる建国以来つい400年前までどっぷりそうでした。相模原障害者施設殺傷事件もその歴史で考えるべきかもしれません。1970年、同じ神奈川県で、母親が介護を苦に脳性麻痺者の我が子を絞殺した事件がありました。母親に同情的な立場から減刑嘆願運動が起きたのですが、その時「青い芝の会」という脳性麻痺者の団体が、「母よ!殺すな」と立ち上がりました。「隣の芝は青い」。他人の幸福は妬まれ、自分の不幸は増幅される。「青く美しい地球」は常に想像の遥か彼方です。しかし思い起こすべきでしょう。地球は平面ではなく球体なのです。そのどの球面上の一点もすべて球の重心になる、という数学的事実を!学校では教えないのでしょうか?地球上のどの一点に立とうがそこが地球の重心であることを。「ひとはみな生きてるんじゃなく生かされている」には、「袖ふれあうも他生の縁」の世の中を日常の営みの中で具現化していく意識が必要なのだと改めて思います。